フレディは自分の目の前に差し出されたその手を強く引き寄せると、そのまま相手を引き倒し、圧し掛かり、攻撃をしようとする。頭で考えるよりも視覚で相手の様子を確認するよりも早く、対冥使との戦闘に慣れた体が銃を持っていないことを確認して首に手をかけようと動いた。
ふわりと花の芳香が漂った。次に相手を目で知覚し、手が止まる。
「フレディ……?」
「……姉ちゃん」
今この手で引き倒した相手は夢の中のアーシュラではなく、レナだった。
「フレディ、倒れたのよ。それからずっとうなされてて……」
見ればここは馴染んだ村の自室で、ベッドの上だ。辺りは暗い。月明かりだけが光源となっている
あの時、実際のアーシュラは手を引き寄せる前にかわした。アーシュラは本当に誘う気など欠片もなかった。
レナに謝りに行って目的を果たす前に倒れて、起きれば危害を加えようとしていたとは何とも情けない。
「…大丈夫だから」
「嘘!全然よくない!!」
自分でも何が大丈夫なんだか、と思う。幻にも気づかずとっさにとった行動から今の状況にごまかしを言えるほど頭が回らない。
具合の悪さも隠しきれずにいる。
「フレディが何で苦しいかわかってる!他の人には話せないだろうけど……苦しいなら私には正直に話して。私なら協力できるから…………」
レナは既にフレディの苦しむその理由を把握したらしかった。フレディの体調だけを心配している。ベッドで男に組み敷かれている体勢のままであることなど欠片も気にしていない。フレディを相手にレナは常に無防備だ。
「……ねえちゃん。誕生日プレゼントに何が欲しいかって聞いてたよね?」
「え?うん……」
両の手首を掴んで強く押さえ込み、耳元で告げる。
「レナが欲しい」
肩口へ顔を埋め、すがるように抱きしめた。冥使独特のレナの低い体温に自分でもひどく実感するほど熱い体が隙間なく覆いかぶさり布越しでも体温と体温が交わる。
柔らかな金糸がこめかみから頬にかかっているのを感じ、更に押し付ける。肩口にあった顔は浮き上がるように白い肌をあらわにした首筋へより、息が皮膚を滑る。かかった吐息に反射的に捩じらせた身体を強く抱きしめることで逃げ場を無くす。
香油は首筋につけていたのだろうか。花の芳香がより強く感じる場所を探るようにレナの肩口から細首の範囲をフレディの鼻が、唇が這い回る。レナの口から「はっ…」と小さく漏れる平時とは異なる息をフレディは敢えて無視し、舐めるわけではなく舌を押しあてた。冥使の舌ならば突き刺さるところだが、人間であるフレディの舌は貫通することなく肌に沿ってふにゃりと曲がり熱い息と唾液を伝わせる。
ビクリと震えた肢体に追い討ちをかけるように手首を強い力で押さえつけ、顔を上げてレナにいま己を押さえ込んでいる存在を認識させる。
レナにとって自分は弟のような存在に過ぎないだろう。祓い手として現場に向かう時以外は常に側にいた。央魔の監視の役目もある。レナに窮屈な思いをさせたくないという思いもある。だがそれ以上に自分がレナの側にいたいという願いが強かった。
周囲からは恋人のようだと何度も揶揄されながらもそういった関係にならずにいたのはひとえにコンプレックスからだ。レナは何かとお姉さんぶりたがり、自分より身長の低いフレディをあやすような接し方をする。頭をこれまで何度も撫でられた。成長期を迎え身長を超せば自然と収まったであろうその行為はいつまでも終わることはなく、『弟』という感覚を引き伸ばし続けた。身長が低いこと自体は気にならない。ただ、レナから『弟』と見られ続ける一番の要因が自分の力で取り除けないことがもどかしかった。『弟』としてではなく『男』として見てもらってから、恋人となるための意識を持って欲しかった。
今にしてみればちっぽけなことにこだわっていた。祓い手として大人と肩を並べ、あらゆる人の生死に立会い、次期大老師として権力を持ちながらも、レナの前では結局一人の『少年』だ。
今、レナにとって自分はどう映っているのだろう。
力を込めれば折れてしまいそうな細い手首を押さえ込む力を容赦なく強める。
「俺、体は小さいままだけどちゃんと男だから。ねえちゃんじゃ太刀打ち出来ない力で襲うよ?」
そう、いつだってレナをこうすることが出来た。筋力差はフレディ自身が驚くほどだ。レナにとってみれば余計に予想外であり恐怖も感じることだろう。この力の差は祓い手と央魔の力の差ではない。男女の力量差だ。
しかしレナの反応は意外なものだった。
「…………いいよ」
その声には揺るぎない強さがあった。
レナと少し話をしたことがある程度の人間であれば思いもかけない反応に違いない。レナは央魔としての特性以上に素直で、本人がいくら大人ぶろうと見た目以上に幼い年齢の少女のような可憐さと感性を色濃く見せている。
それでもその心には強い強い意思を抱えている。
今、フレディに向ける視線には怯えなど欠片もない。
真っ直ぐにフレディを見据えていた。
「フレディになら全部あげる。血だって肉だって、全て捧げる覚悟くらいあるの」
琥珀の瞳は底強さを携え、眼前で己を押さえつける存在を映す。少女のその顔を見れば誰もが凛々しいと称えるだろう。
つきつけられた彼女の強さにフレディは声が出せない。その視線に捕らえられ動けない。思わず手の力が緩み、レナの腕は自由を求めあっさりと開放される。
意のままに動かせるようになった両手で、レナはフレディの頬に後頭部に手を回し、その銀を引き寄せた。
「苦しんでるから同情してるんじゃない。いつどんな時だってそう想ってる」
驚いていた。同時に見惚れてた。
ポカンとしていたフレディの口はレナの舌の侵入を許す。顔の近づく瞬間を余すことなく見続けていたくせに、何一つ動けずキスも受身となっていた。舌に特殊な能力を持つ彼女はその力を使わない。舌を舌で触れ、舐める。僅かに絡む。混ざり合う液体は互いの唾液のみだ。
積極的な行為とは裏腹に微々たる知識しかないのだろう。息継ぎの仕方を知らず、すぐに離れた。ディープキスというにはまだまだ幼稚だった。
お互い初めての挨拶以上の意味を持つキスに二人は見つめ合ったが、短いような長いような視線の交わりを先に終わらせたのはフレディだ。
ぽすっ、とレナの顔の真横に己の顔を落とし、レナの体の上で全ての力を抜いた。
「え?あ、あれ?……何もしないの?」
「まだ誕生日じゃないから」
胸の奥の激情を愛という形で俺に向けてくれるなら、もうそれで充分だ。
「でもこのまま眠らせて」
血を! もっと 血を!
血ヲ! どうか 血を!
血を!血ヲ!血を!血ヲ!血を!
血ヲ!血を!血ヲ!血を!血ヲ!
あの禍々しい声が聞こえる。血が体中を這い回る感触も血の叫びもこれまでとは比べ物にならないほどにひどい。
それも今夜で最後だ。
血の声は悲鳴と断末魔だった。
全身が内部からひび割れていくような痛みは例えではなくなっていた。柔らかな殻だった皮膚の細胞が裂けてゆく。
フレディはぎゅっと目を瞑り、堪えられぬほど苦しい時はレナを抱きしめる力を強くした。それだけで心は安らぎ、血の叫びや全身の痛みなどどうでもよくなった。
これが終われば自分は死ぬだろう。
恐怖はない。
彼女と、彼女への心に比べたら血への誘惑などなんと軽いことか。