レナに告げていない出来事がある。
5年前、レナと出会ったあの事件の時だ。
秘密にしようとしているわけではないが、当時は言えようもなかったし、事件後は告げたところでレナを不快にさせるだけの内容だった。
フレディはアーシュラと遭遇していた。
レナと出会って4度目の夜、レナは蒼白した顔でフレディに助けを求めた。下級冥使だらけで血の匂いしかしないこの修道院の中で、母を見なかったかと。
人間を守るのは祓い手の最優先任務だ。すぐに特徴を聞きメモをとった。捜索に必要な情報を最低限聞かせてくれればいいのに、レナはひどく焦りながらも、母が美人だとか仕事が出来て頭がいいとか、とても綺麗な絵本を買ってくれた時のエピソードだとか、そんなことまでも大事な情報の一つだとして寄越してきた。
それだけ慕っていたのだ。とても優しく、自慢で憧れで大好きな母親。レナの母親の話を聞いたのはその時が初めてで短時間ではあったが十分すぎるほどに母への愛情が伝わった。
レナにも『人間を』捜すとは告げた。
そして『人間』はいた。
冥使に連れ去られたと予想されていたが、その母と遭遇した際、一目で冥使と人間の上下関係が真逆であるのがわかった。
『人間』はいた。下級冥使を明らかに下僕として引き連れて。
おかしいとは思っていた。修道院からレナの家の地下へ通じるその道の途中には二つの死体を利用した結界があった。穢れであり、力も弱い下級冥使や血に狂いながらも雛に過ぎないレナの影はその結界より先へ進めない。唯一そこを行き来出来る黒髪の上級冥使は母の悲鳴を聞いたその当時はレナと共にいたという。
女は冥使よりもはるかに濃い血の匂いを纏い不適に笑んでいた。
黒髪の冥使が告げていた名前がある。
『聖女アーシュラ』
村にとって最大の汚点ともいえる女性の名を、しかも百四十年も前の人間の名と当時の村の責任を何故今告げられねばならないのかと名を聞いたその時は不思議に思っていたが、目の前に立つその女を見て瞬時に理解する。
レナが母と慕うその女の正体を。
そしてこの惨劇の黒幕の招待とそれに至る大まかなシナリオを。
彼女の第一声がその推測が正しいものであることを裏付けた。
「忌々しい銀色だこと。瓜二つで嫌になるわ」
誰に、とは言わなかった。一人吐き捨てる言葉はとても短いその一言であらゆる物事を雄弁に語る。
第一に、本当に連れ去られた者ならば子供とはいえ人間を見れば強い反応を見せる。通常の反応ならばひどく驚いた後は、本当に人間かと警戒するか助けを求めるか、はたまた子供がこんなところにいては危ないと焦りだす。しかし目の前の女性は人間だとわかった上で、フレディの銀髪・銀の瞳を忌々しげにごちる。
第二に、瓜二つと一目で言い放ったフレディの容姿についてだ。
フレディの両親は銀髪でも銀色の瞳でもない。毛と瞳に現れるこの色は強すぎる力の象徴ともいえる。
フレディは両親よりも初代フレデリック・オーゼンナートに良く似ていた。といっても初代に憧れる自分ですら初代の顔は青年時代の肖像画しか知らない。同じく肖像画しか知らない人間は『よく似ている』以上の評価を下さない。肖像画は所詮絵だ。自分のよく知る肖像画も写実ながらに作家の個性が息づいているのがわかる。だからこそお世辞に評せても『よく似ている』止まりなのだ。
女性は一目で瓜二つと言い放った。
百四十年前であれば初代フレデリックは今の自分と同じくらいかそれより少し若いくらいだ。聖女アーシュラは当時村で最高位にいたが、幼い頃から強力な力を持つ初代に話題をさらわれがちだった。人々に称えられながらもその賞賛を完全に独り占めすることは適わず、むしろ初代に話題を持ち去られ、むしろ日陰の存在にあった。現代ではそのコンプレックスが血の誘惑に負けた要因ではないかとも推察されている。
アーシュラとの会話は短時間のものだった。会話後、すぐに側にいた下級冥使に命を下し、戦闘となったため追うことは適わなかった。戦闘中、タイミング悪く戦闘領域となっていた部屋に入ってきたレナを庇い、下級冥使の舌と血の入触を許してしまうのだけれども。
その下級冥使はレナの友人の一人だと知った。
レナはもはや人間ではなくなってしまった彼に銃を向けることは出来なかった。
そして絶命した彼が、レナのために惨劇に巻き込まれたことを知り、見る者の胸も張り裂かれるような泣き声をあげた。
何も声はかけられなかった。彼の前にももう一人、友人がこの惨劇に巻き込まれレナの目の前で命を落としていた。レナにはその苦しみを癒す時間を与えられることなく、さらに過酷な試練が待ち受けているのを、フレディは知っていた。
レナは影を制さなくてはならない。そして影に過剰に血を与え狂わせた黒幕と対峙する。そこまでは予測出来ていたことだったが、その黒幕と対峙する瞬間、どれほどレナが辛く苦しい思いをするかはアーシュラと出会うまで想像もつかなかった。
影との対峙と融合に手を貸してやることはできない。
せめて黒幕との対峙の瞬間は側にいてやろう。
いや、俺が守る。
出来ればその先、無事に村へと連れて行けるならその時は共に幸せを見つけて生きたいとさえ思う。
レナに対する恋心を自覚したのは事件後に村へ行き共に暮らし、一個人としてのレナと同じ時を長く供に過ごし、彼女をより深く知ってからだ。
ただ、守ろうという意思はこの時から強くあった。
『もう一人の自分』を守り、救いたかった。『もう一人の自分』としてではなく『レナ』を守り救いたいという意思を強めたのはアーシュラとの会話だ。時間にすればほんの数分のアーシュラとの会話は忘れることはない。
それから年月は経ち、フレディの中の血が血を求めよと喚く黒の空間の中、あの時のアーシュラの言葉は血に堕ちろという誘いとして響きだす。
央魔の血は 魅惑の血
不老と強力な力
神は何故この世の理に央魔を組み込んだのかしらね?
問いかける言葉ではあったがアーシュラはフレディの反応などお構い無しに、まるで舞台の観客に語りかけるように余裕で優雅な立ち振る舞いをしながら言葉を続ける。
神にも等しき存在のエサとなるためよ?
あれは人形。愛玩以上に肩入れする必要はどこにもない
――やめろ!!
――レナを侮辱するな!!
レナはあんなにも『母』を慕っていたのに。
母の愛情を微塵も疑っていないのに。
だが所詮、人形に過ぎないのだ。
ままごと遊びの人形だ。人形を娘に見立て、優しい言葉を語りかけ、慈しむ。抱きしめ、髪を撫で、とても大事に大事に扱ってきたことだろう。
人形は持ち主の愛情を信じて疑わない。
人形は知らない。自分が人形である真実を。人と人形の線引きを。所詮はごっこ遊びの偽りの世界に生きていたことを。
――レナは――――
それ以上は何も言えなかった。
どれだけレナの心を語ろうと人形のそれに過ぎないのだ。
あの純粋さがただただ痛ましい。
アーシュラは笑み、手を差し出す。
あなたも血が欲しいのでしょう?